WPIで生まれた研究READING

日本を救う、AIと睡眠科学の融合─圧倒的な研究に裏打ちされた新技術(WPI-IIIS前編)

 私たちは人生の約3分の1もの時間を、眠りに費やす。だが、「なぜ睡眠が必要なのか」「眠気の実態とは何なのか」という睡眠の本質的な機能、意義にはいまだ多くの謎が残る。これを「現代神経科学 最大の謎」と表現するのは、睡眠基礎研究のパイオニア、筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長、柳沢正史さんだ。

 WPI-IIISが進めるのは、基礎神経科学、創薬化学、実験医学を融合させた「睡眠医科学」という新たな学際研究だ。睡眠障害の治療法への応用も見据えながら、睡眠科学の大きな謎に挑んでいる。

 とりわけ日本は、睡眠障害による経済損失が年間15兆円と試算され、平均睡眠時間は経済協力開発機構(OECD)の加盟国中でも最下位。厚生労働省の令和3年度 健康実態調査結果でも、睡眠時間が7時間未満の人が67.7%に及んでいる。こうした現状に光をもたらす知見が、WPI-IIISの新たな融合研究から生まれている。

WPI-IIISの新たな融合研究

 WPI-IIIS機構長の柳沢正史さん、そして副機構長の櫻井武さんは「オレキシン」という神経伝達物質の発見者として知られている。オレキシンが欠如すると、覚醒を維持できなくなり、場所や時間を選ばずに眠ってしまう「ナルコレプシー」という睡眠障害になることを突き止め、オレキシンが睡眠と覚醒を制御する重要な役割を担っていることを明らかにしてきた。これは「過去50年における睡眠研究で最大の発見」と言われている。

 柳沢さんは「オレキシン研究を通じて睡眠覚醒の神経科学に関わってきた結果、睡眠覚醒制御の根本に迫り、新しい睡眠覚醒の制御方法・睡眠障害への介入方法を開発するためには、全く新しい、領域融合を伴うアプローチが必要であるとの確信に至った」と、WPI-IIISの拠点構想を語っている。同拠点は2012年に発足し、基礎神経科学、創薬化学、実験医学の融合による一つの大きな成果として、オレキシン神経系をターゲットとした創薬を実現した。

 このオレキシン研究から発展した「神経科学と創薬科学の融合」の過程では、膨大な実験データが蓄積されてきた。例えば、マウスの脳波測定だけでも4,000 匹近い数で行われている。こうした実験データをさらに活用すべく“新たな融合相手”として白羽の矢が立ったのが「データサイエンス」だ。情報技術を使った睡眠データの解析に向け、取り組みが加速したのは、2015年。文部科学省の新学術領域研究への応募がそのきっかけとなった。こうした研究資金の獲得においては、前事務部門長の小久保利雄さんがコーディネーターとしての手腕を発揮し、融合研究がさらに発展するための下地が敷かれていった。

 そして、この段階から新メンバーとして加わったのが、WPI-IIIS主任研究者の北川博之さんだ。現在、北川さんは人工知能(AI)による睡眠ステージの自動判定をはじめ、睡眠データの解析を主導している。

WPI-IIISにおける有機的な異分野連携の概念図

 北川さんは、まだ「データサイエンス」という言葉もなかった頃から、40年以上、データ工学、データマイニング(大規模データを数理アルゴリズムや人工知能などを用いて分析する技術)の研究を続けてきた。筑波大学では、旧・計算物理学研究センターで、情報系の高性能計算基盤と主に物理学、天文学を融合させた研究が行われていた。2004年に計算科学研究センターにリニューアルされると、生命科学や気象学など、さらに幅広い自然科学に対象を拡大。この時、北川さんも計算科学研究センターに移籍した。これまでも様々なデータを扱ってきた北川さんだが「まさか睡眠に携わるとは。睡眠現象の奥深さを日々感じています」と話す。

WPI-IIIS主任研究者 北川博之さん

 「情報技術の進歩によって計算基盤が発達したことで、ノイジーなデータを含む生体データも扱えるようになりました。それでも、睡眠に関するデータは、解釈が難しいです。脳波信号をどう解釈し、理解するのか。生理学や脳神経科学など睡眠の専門家と協力しながら、手探りで研究を始めました」と振り返る。

AIで専門医のように判定できるのか?

 まず行われたのは、それまでの実験によって蓄積されたマウスのデータの解析だ。その上で、2016年「地域イノベーション・エコシステム形成プログラム」の採択を機に、ヒトを対象に、小型の計測デバイスを開発し、取得したデータを自動解析する試みが始まった。

 だが、それまでマウスのデータでやってきたことを、そのまま簡単にヒトに応用できたわけではなかった。マウスとヒト、同じ哺乳類でもデータとして現れる睡眠の表れ方はまるで違うという。そもそも、マウスとヒトでは脳波の波形が異なる。マウスでは特定の周波数が見られるが、ヒトの場合は周波数が入り組んでいる。マウスで明らかになってきた睡眠の脳波データとヒトでの脳波データとをどう比定するのか。AIによる自動判定モデルの設計図は、一から作り直す必要があったのだ。

マウスとヒトの脳波の比較
EEG:脳波、EOG:眼電位(眼球運動の測定)EMG:筋電位

 こうした難しい壁を前に、助っ人として現れたのが計算科学研究センター助教の堀江和正さんだ。堀江さんは2017年に筑波大学で博士号を取得し、同年、研究員として着任。脳の神経回路の一部を模した数理モデル「ニューラルネットワーク」を専門とし、筋電図など筋肉のデータを扱ってきた。

左から筑波大学計算科学研究センター助教 堀江和正さん、WPI-IIIS主任研究者 北川博之さん

 情報科学と生体データの両方を知る適任者がホスト機関から見つかったのは実に幸運と言えるだろう。だが、ヒトの睡眠データを集める上では、もう一つ大きな壁があった。

 実験用のマウスは系統(遺伝子のバリエーション)が揃っているが、私たち人間の個人差は比べ物にならない。さらに年齢、性別、無呼吸症候群などの睡眠障害の有無など、条件も様々だ。データから一般的な法則を読み取るには膨大な計測データが必要なのだ。

 では、どのようにデータを取得するのか。従来、睡眠検査といえば、入院して専門医の下で行う終夜睡眠ポリソムノグラフ(PSG)検査が主流。だが、その判定には、高い専門性と多くの時間を要する。そこでWPI-IIISで手がけたのは「家庭での個人計測」という応用への第一歩となる新しい計測の形だった。

 「病院で行うポリソムノグラフ検査の方が、センサーも信号数も多いため得られるデータも豊富です。専門家が設置するため、ノイズも抑えられますが、家庭での個人計測を実現する上では、そうした対策も考える必要がありました」と堀江さん。専用デバイスの開発と並行しながら、こうした解析上の課題を一つ一つクリアしてゆき、従来のポリソムノグラフ(PSG)検査との一致率が83.6%と高い精度でAIによる自動判定を可能にした。ちなみに、マウスのデータでは95~97%の精度だったが、ヒトのデータに関しては専門家の目で判定しても、同じデータに対する一致率は80%強と言われる。「専門家の目の代わりをAIで実現した」と言える水準に達している。

データから「睡眠の本質」に迫る

 データサイエンスとの融合によってもたらされた革新的な技術は、2017年に筑波大学発のベンチャーとして設立されたS’UIMINに託され、2020年より睡眠測定サービスが始まった。

 現在、S’UIMINが作成する睡眠経過図(ヒプノグラム)は、アメリカ睡眠医学会の定める方法に従い、脳波データを30秒ごとに分けて、「REM, N1, N2, N3」の4段階(この順に眠りが深くなる)と、覚醒(WK)、判定不能(NS)のいずれかに判定している。この「REM」や「N1」といったラベル付けを、専門家と同程度の精度で、AIで行っているのだ。

睡眠経過図が示す睡眠段階(詳細はこちら:https://www.suimin.co.jp/column/report_05

 「現在は判定方法も業界のスタンダードを踏んでいますが、例えばデータを30秒で区切ることも便宜的で、睡眠を理解する上でこれがベストとは限りません。データの特性に合わせた分析法を提案する余地がまだあると考えています。睡眠データには、未開の領域が多く残されていると思っています」と北川さんは話す。

 より多くの人の睡眠データを解析していくことは、ヒトの睡眠の実態を理解することにもつながるだろう。そして今後、ますます睡眠科学の専門家との協働、異分野融合が重要となるはずだ。続く後編では、睡眠医科学研究を強力にバックアップする事務部門長の木村昌由美さんも交え、有機的な連携が生まれる背景に迫る。

左から堀江和正さん、北川博之さん、小久保利雄さん、木村昌由美さん

【取材・文:堀川晃菜、写真・図版提供:WPI-IIIS】


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