WPIの研究を支える人たちREADING

眠れるデータを起こせ! ―基礎研究とビジネスのエコシステム構築へ、WPI発ベンチャーの挑戦―(上)

 ワクワクするような謎を解明し、人類の知を広げる一方、実生活の役には立たず、あるいは役に立ったとしても遠い先の話——。基礎研究は、こんなイメージを一般に持たれている。一方、ビジネスでは、人々の知的好奇心を満たすことより、いかに実生活に役立つかが問われる。

 一見、水と油の関係に思える基礎研究とビジネスを、データの力でつなげようとしているのが、WPI発ベンチャー企業である株式会社S’UIMIN(スイミン)だ。

 社名から推測されるように、同社は「睡眠」に関わる課題の解決に取り組む。

「睡眠障害に悩み、睡眠を改善したいと切実に思っている人たちがたくさんいます。寝付けない、何度も目がさめる、昼間眠くて仕方がないなど、いろいろな訴えがある。膨大なニーズがあるわけです。ところが、睡眠障害を抱える人たちに対して、これまで十分な診断・治療ができたとは言えません」

 と語るのは、同社取締役会長CSOで、筑波大学国際統合睡眠医科科学研究機構(WPI-IIIS)の機構長、柳沢正史氏だ。

 日本では成人の21.6%、すなわち5人に1人は、何らかの睡眠に関する問題を抱えているとされる(厚生労働省の平成30年「国民健康・栄養調査」)。経済協力開発機構(OECD)による睡眠時間の国際比較調査でも、日本はたびたび最下位を記録している。睡眠が不十分であれば、頭が冴えず、勉強したり、働いたりしても効率が上がらない。さらに様々な疾患にかかるリスクも高くなる。その経済損失は国内だけで年間約15兆円とも試算される。

 睡眠障害は、まさに国民的課題だ。だが、柳沢氏によれば、これまで睡眠状態を知るための客観的なデータが不足していたという。

柳沢正史氏

「これまで圧倒的に足りなかったのは、睡眠中の脳波のデータです。そのため、ほぼすべての医師が、これまで患者さんの訴えだけで不眠症の診断をしてきました。主観的な訴えだけで不眠症か否かを判断するのは、現在の標準的な診断方法でもある。これを書き換える必要があります」(柳沢氏)

 従来、睡眠脳波を計測するために使われてきたのは、検査入院の必要な睡眠ポリグラフ(PSG)装置だ。だが、PSG検査を体験したS’UIMIN社代表取締役の藤原正明氏によれば、「とても眠れたものじゃなかった」という。

藤原正明氏

「PSGを取りつけてもらうとき『藤原さんの頭だから一時間かからないけど、毛のある人なら1時間はかかる』と言われました(笑)。鼻に管を通されたり、頭に電極を巻かれたりした状態で寝るので、まあ、寝心地はよくありません。しかも、慣れない検査室で眠らなければいけない。PSGを使えば、たしかに脳波を正確に測ることができます。しかし普段の睡眠中の脳波とはかけ離れたものしか測れないのは間違いありませんね」

 睡眠中の脳波を測る装置が、眠りを妨げたら元も子もないわけだ。一方、同社のデバイスでは、心地良い装着性で信頼性の高い脳波データを取得できる形状を実現した。頭部はもちろん腕や胴体にいくつも電極を取り付けなければならないPSG装置に比べてかなり簡素である(下図)。

「寝ている間、人は寝返りを打つなどいろいろ動きます。それでも信頼度の高い脳波が約8時間連続測定できる必要がありました。このハードルが非常に高い。プロトタイプの改良を重ねています」(柳沢氏)

睡眠脳波計測デバイスのイメージ。電極を前頭部に装着するタイプで、電極をコネクタでデバイスと結合させる。電源をオンにし、デバイス本体は枕元に置いて就寝するだけで、脳波や眼球運動のデータが取得される。取得されたデータが起床後に同社のクラウドサーバーに送信され、AIがこれを解析する。その結果をまとめた総合評価レポートが、ユーザーにフィードバックされる。

マウスから人間へ

 一方、いくら寝心地が良くても、いい加減な脳波しか取れないとしたら意味がない。結局、「快適な寝心地と信頼性の高い脳波データのトレードオフ」(柳沢氏)だが、同社は、独自のノウハウを盛り込んだ電極と枕元設置型のデバイスにより、両立を目指した。

「更に筑波大学計算科学研究センターとの共同研究で、深層学習などのAIを用いて、脳波データから睡眠ステージを自動判定する信頼性の高い手法を開発しました。熟練の睡眠検査技師が2、3時間かけて判定するところを、AIは瞬時に、かつ同程度の正確さで判定できます」(柳沢氏)

 深層学習は、未知のデータから適切にパターンや特徴を抽出する機械学習の手法の一つだ。脳波データの場合は、ノイズの混じるデータを分析し、覚醒、ノンレム睡眠、レム睡眠などの睡眠ステージを判定する。そのためには事前に、深層学習モデルに脳波と睡眠ステージの対応関係を表す大量の教師データを学習させる必要がある。

 その大量の教師データを用意するのに役立ったのが、柳沢氏らが構築したマウスの実験システムだった。

 長く米テキサス大学教授として、世界の睡眠研究を牽引してきた柳沢氏は、2010年、国の最先端研究開発支援プログラム(FIRST)の研究費を得て、テキサス大とは別に筑波大学にも自らのラボを立ち上げた。2012年にIIISが発足し、機構長に就任すると、研究の軸足を日本に移した。

 柳沢氏は帰国後、それまでとはガラリと研究のスタイルを変えた。様々な条件下で、マウスの睡眠を調べる研究から、マウスの遺伝子にランダムに変異を入れ、睡眠中の脳波や筋電位を測定することにしたのだ。あえて予断を持たず、仮説も立てず、遺伝子の変異によってマウスの睡眠にどんな変化があらわれるのか、フォワードジェネティクスの手法で網羅的に調べたのは、謎に満ちた睡眠の仕組みに迫るためだった。

 実験で扱うマウスの数も十数匹から数千匹へと一挙に増えた。それに伴い、実験の方法も新たに構築する必要があったという。

「スクリーニングだけでも毎週50匹のマウスを扱いましたが、人間がその脳波をいちいち解析していたらとても間に合いません。そこで脳波を自動解析するシステムを作りました」(柳沢氏)

 こうして1万匹近いマウス実験を経て得られた成果として2016年にNature誌に発表したのが、ノンレム睡眠の長さに関与するスリーピー(Sleepy)遺伝子と、レム睡眠の長さに関与するドリームレス(Dreamless)遺伝子だ。睡眠・覚醒を制御する仕組みの解明に繋がる重要な発見だった。

 一方、柳沢氏はこの研究を通じ、「睡眠脳波のデータをたくさん集めると、面白いことがわかる。マウスでできるなら人間でもできる」という気づきを得た。さらに「IIISのWPIとしてのミッションには、睡眠学の社会的発信も含まれる。それならば人間でもやるべきだという考えに至った」という。

「当時(2016年頃)、スリープテックという言葉が流行り始めたころでもありました。人間の睡眠を測定できると称して、加速度、傾斜、振動などを検知するモーションセンサーを応用したデバイスが次々と出はじめたのです。しかし、睡眠研究に長年取り組んできたわれわれから見ると、脳波を見なければ、本当の睡眠状態はわからないのは明らかでした。心拍数や消費カロリーを計測するウオッチ型のウェアラブルの活動量計を使って睡眠を測っても、総睡眠時間くらいはわかりますが、睡眠ステージまではわからない。やはり脳波を測定しなければ、睡眠時間は長くても、深い睡眠の時間がどれくらい続いたのかなど、睡眠の『質』を把握することはできません。とは言えPSGではわざわざ検査入院しないとならないし、手間がかかりすぎる。そうではなく在宅で、簡単に、かつ正確に睡眠中の脳波を測るサービスなら事業として成り立つだろうと考えたんです」

 WPIのミッション、マウス実験で気づいたビッグデータの可能性、スリープテックが見落としている脳波の価値。これらの要素が柳沢氏の頭の中で結びつき、新たな事業の種が芽生えたと言えるだろう。

WPI-IIIS機構長の柳沢正史氏(左)と株式会社S’UIMIN代表取締役社長の藤原正明氏。


関連情報

過去記事