WPIの研究を支える人たちREADING

学生はITbMの融合研究を活性化する触媒

名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(ITbM)

 WPI拠点の多くは、大学に設置されている。だが、WPI拠点と大学の役割には大きな違いがある。それは、教育機能を持つか否かだ。大学が研究機能と教育機能を併せもつのに対し、WPI拠点は、教育に関わる義務から免除される。その代わりに研究に専念し、海外からも優秀な人材を招聘して、世界トップレベルの研究所を作りあげる。それがWPI拠点に課せられた使命だ。

 少なくとも、WPIの構想が生まれた時点では、そのように考えられていた。

 だが、世界トップレベルの研究環境が、教育にも有効であることは容易に想像できる。したがってWPI拠点形成事業がスタートしてしばらく後、大学と拠点とでポストを兼務し、大学院生たちと身近に接する研究者から、これまでに蓄積されたノウハウを教育にも活かすべきだとの意見が続々出るようになったのも、不思議なことではない。WPI拠点以外でも、これまで教育機能を持たず、企業と連携して最先端の研究所作りに邁進してきた研究者たちの間でも同じ意見が聞かれた。

 一方、イノベーションを担うはずの日本の理科系大学院の博士課程も、大きな課題を抱えている。専門知識・技術を身につけたが故に、博士号取得者は企業から「潰しが効かない」と敬遠されて採用されにくかったり、学歴に見合う高給を保証されなかったりしてきたのだ。

 最先端の研究所が持つ強みの有効活用と、大学院教育の課題——。この2つの課題を一挙に解決することを目的の1つとして、2015年、政府の成長戦略の中で、「卓越大学院」制度が提案された。

 文部科学省がこの事業を創設した2018年度、54件の応募から15件採択されたうち、化学・生命科学の組み合わせで唯一採択されたのが、「名古屋大学卓越大学院プログラム トランスフォーマティブ化学生命融合研究大学院プログラム(Graduate Program of Transformative Chem-Bio Research)」、略称GTRである。名称から分かるように、WPI拠点のITbMと名古屋大学が連携するプログラムだ。

 通常、大学院では修士2年、博士3年の課程だが、卓越大学院では、5年一貫の博士課程により、イノベーション創出を担う人材を育成する。

【 4つの研究室に所属する学生も 】

 大学院生は一般に1つの研究室に所属し、多くの場合、研究室を主宰する教員に与えられたテーマについて研究し、その成果を論文にまとめる。しかしGTRの学生は、プログラムに参加する名古屋大学大学院の理学研究科、工学研究科、生命農学研究科、創薬科学研究科それぞれの研究室に所属しつつ、同時に別の研究室にも所属して、両者の研究を混ぜた「融合研究」をすることが求められる。逆に言えば、一つの研究室で、指導教員から言われるままのテーマで研究することは禁じられる。熱意と覚悟があれば、所属する研究室は2つといわず、3つでもかまわない。

「4つの研究室に所属している学生もいますよ。GTRのM1(通常の大学院生であれば修士課程1年目)の学生は、研究を指導してもらうメンター(いわゆる指導教員)を少なくとも2人見つけて、終了時に融合研究プローポーザルを出してもらいます。それが認められれば、研究スタートです」

と語るのは、GTR学生支援室の三浦亜季さん(特任助教)だ。GTRの学生は主に同プログラムと連携する大学、企業から2人目のメンターを見つける。連携先は、国内では理化学研究所、分子科学研究所、基礎生物学研究所、中核企業(カネカ、コニカミノルタ)、その他、ITbMとコンソーシアムを形成する15社(2020年現在)など。連携先に限らず、学生が自由にメンターを探してくることも可能だ。

図1 名古屋大学卓越大学院プログラムトランスフォーマティブ化学生命融合研究大学院プログラム(GTR)学生支援室の三浦亜季さん(特任助教)

「海外の大学の研究室などに行く場合には、そのための渡航費や宿泊費など最大150万円までの経済支援も行います。それと合わせて融合プロポーザル準備中の学生には年50万円、融合プロポーザルを採択された学生には年100万円が支給されます。融合研究の進捗審査が毎年行われますが、D2(博士課程2年目)に、複数の研究室で学んだことを元に、自身の研究とは異なるテーマでの自立研究プロポーザルを出してもらいます。研究の価値を自ら評価し、研究方法を具体的に提案させることで研究構想力、研究立案力を磨くためです。複数の分野で経験を積み、融合フロンティアを切り拓いて、未来の知を創出する、言いかえれば、学術界・産業界で自立して研究を先導する研究突破力を持つ研究者を育成するのが、このプログラムの狙いです」(三浦さん)

 プログラム生95名についてダブルメンター(2人目のメンター)の所属機関の内訳を表したのが、下図だ。最も多いのはGTRに参加する名大の学科の46%だが、半数以上の学生が名大以外の国内の大学や研究機関、海外の大学、企業など、外へ飛び出て融合を図っていることが分かる。

「融合研究をはじめる前に、各自の指導教員(1人目のメンター)と、ダブルメンターとの間で議論をしていただき、研究内容のすり合わせの上、両者から署名を書いてもらいます。GTRの学生が企業で研究する場合には、企業との間で秘密保持契約も結びます。というのも、関係者間の承認の下で研究をしているという形を取らないと、複数の研究室の間で学生が板挟みになってしまうかもしれないからです。そういうリスクがないようにこちらでサポートして、学生には研究に集中して、充実した時間を過ごしてもらいたいと考えています」(同)

【 ITbMのミックスラボ 】

 ここまで紹介してきたGTRのダブルメンター制度、融合研究の下地になっているのが、ITbM独特の取り組みだ。その名はミックスラボ。化学、生物学、計算科学など異分野の研究者を、文字どおり、ミックスする空間である。

 ミックスラボはITbM棟の構造に具現化されている。ITbM棟の中で、居室エリアは実験エリアのすぐ上にある。といっても、普通の上下階と違って、画然と区分けされているわけではない。居室エリアは実験エリアにせり出す格好で配置されているので、居室エリアからガラス窓を通じて、誰がどんな実験をしているのかいつでもわかるし、らせん階段で下りながら全体を見わたすこともできる。両エリアは一体のものとして作られているのだ。

図2 ITbM棟 Mix-Lab(ミックスラボ)

 普通の研究棟では、研究者はそれぞれの所属する分野ごとに別れたフロアの研究室で一国一城の主として過ごし、別の研究室を訪ねるときはドアをノックして入っていく。異分野の研究者同士が交流する場としては、せいぜいラウンジが用意されているくらいだろう。しかし、ITbM棟のミックスラボには、研究者を隔てる物理的な壁もパーティションもない。異分野の研究者は、この開放的な環境で、雑談から新しい実験のアイデアに関する議論まで気軽にはじめられるのだ。

 事務部門長の松本剛さん(特任教授)は、実際にミックスラボで、様々な融合研究が生まれていると話す。

「化学合成を行っている化学者が、自分が作った化合物の生物活性を、生物学者に実験装置の使い方を教えてもらいながら自分で調べて、思いも寄らない結果が出たというようなケースはよく見られます」

 ITbMで先行したミックスラボを、その規模を拡大し、教育効果を高めて制度化したのが、GTRと言えそうだ。

「拠点長の伊丹(健一郎)さんは、元々、もし機会があれば、研究室の壁を完全に取り払って、誰かが『こんな研究をはじめたい』と呼びかけたら、この指止まれ方式で研究が始まるような研究所を作りたいと考えていたんです。そこにたまたまWPI事業の話が出てきた。そこで申請して採択されたわけです。最初にPI(主任研究者)を集めるときも、分野を超えた研究をしたい人、異分野の研究者と組んで新しい学問を作ることに関心のある人に声をかけました」(松本さん)

 ITbMは融合研究を志向するPIだけで発足したわけだ。「その効果は大きい」と松本さんは言う。

「それまでの組織形態を引きずった形で、いざ融合しようとしても、かけ声だけに終わりがちです。その点、ITbMは最初から、全員で融合しようという意識付けをしてからスタートしています。ITbMのあちこちで分野をまたいで研究が進んでいますが、その様子を学生も見ている。だから、その学生たちもどんどん融合するので、加速度的に融合が進んでいきます」(同)

 ITbM棟の基本的なデザインは、PIが意見を出し合って決められたという。

「居室エリアはみんなで共有できるようにしました。たまたま隣に座った別々のPIの指導を受けている研究員同士がいつのまにか新たな研究をはじめて、PIはセミナーでそのことを知らされるといったこともある。みんなが勝手に研究をはじめることを許す雰囲気ができています」(同)

 ただし、実験エリアは、生物系と化学系の間に壁を設けているという。

「ITbM棟ができる前は理学部の建物の一部に間借りしていましたが、化学系と生物系の研究者に、あえて同じ実験室を使ってもらいたんです。ただ、異分野交流が深まったのはよかったのですが、有機溶媒で植物がダメージを受けるとか、メダカが死んでしまうなどの問題が起きてしまって……」(同)

 ミックスと言っても研究者同士の交流と違って、各自が実験に使う、生物や化合物が、不用意に混ざり合うのはトラブルの元になる。隔てるべきものは隔てなければならないわけだ。

 三浦さんによれば、GTR学生支援室には、学生から、「自分の視野が広がった」、「研究に対するモチベーションが上がった」などの声が多く寄せられているという。

「自分が専門とする分野について話すことで、自分の研究にどういう価値があるかを再確認できたり、新しい課題を発見できたりしたという意見も届いています」(三浦さん)

図3 GTRの成果報告会

 専門分野を異にする人に、自分の研究内容をわかりやすく伝えるには、自分の研究コミュニティーだけに通じる専門用語を避け、ある程度、相手の立場を推し量りながら説明する必要がある。このとき相手の視点で自分の研究を見つめ直すことになる。こうした一種の頭の体操が、融合研究の、ひいては新たな学問の種になるのだろう。

 ITbMのアウトリーチ活動に関わる研究推進部門の三宅恵子さん(特任講師)は、GTRの学生たちの説明能力の向上ぶりに注目しているという。

「GTRの学生さんがITbMのアウトリーチ活動を手伝ってくれることがありますが、彼らの説明が分かりやすくて、すごく助かっています。異分野の人に自分の研究を説明しながら、専門性を高めつつ、広範囲の他者と知見を共有していく経験は、就職にもきっと役立つはずです」

【 学生が広げる研究ネットワーク 】

 GTRが、学生にとって刺激的なプログラムであるのはたしかだが、学生を受け入れる教員にとっても思わぬ収穫があるのだという。

「学生は、ダブルメンターを探して、様々な研究者と接触しますが、融合研究をはじめるとき、元々のメンター(指導教員)と、2人目、あるいは3人目のメンターがお互いに議論して、学生の融合研究を指導するので、結果的に、教員間の出会いも広がっています。GTRは、学生だけでなく、教員の研究者も新たな分野に進むきっかけになっているのではないかと思います」(三浦さん)

 人は年を取って地位が上がるなど立場が変化すれば、多くの場合、考え方の柔軟性を失う。研究者も、わざわざ自分で慣れない実験をするより、もっとその専門技術に長けた人に頼めばいいと思いがちだ。しかし、学生は、まだ身分の定まっていないからこそ、ベテラン研究者には高い心理的障壁を軽々と超え、融合研究の土台をなす研究ネットワークをどんどん広げることができる。

図4 GTR生たち

「コロナ禍にあって研究者間の交流が進めにくい状況ですが、学生たちは、たとえばチャットツールのSlackを活用して研究を進めたり、異分野の研究者とコミュニケーションを取ったりなどして、ネットワークを広げています」(同)

 ITbMで得られた知見の教育効果を見込んでスタートしたGTRだが、今度はその学生たちを触媒としてITbMの研究活動が活性化しつつあるのだ。

 今、大きな研究コミュニティを築いている分野の多くは、小さな融合研究からスタートしていることは多い。融合研究が新たな学問として確立すると、これまでは大学で、ある学科を潰して、別の学科を作るなど組織の再編がくり返されてきた。だが、近年の研究トレンドの移り変わりは激しく、この状況に対応するには学科レベルの再編では間に合わない。いずれはGTRの学生のように、大学院生はみな異分野の研究室に複数所属して、融合研究の主たる担い手となるのかもしれない。

【取材・文:緑 慎也、写真・図版提供:GTR、ITbM】


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