WPIで生まれた研究READING

組み合わせ無限大!「ニオイ」を測って世界平和を達成する方法(上)

新シリーズ「WPI世界トップレベル研究拠点」潜入記スタート!

WPI(世界トップレベル研究拠点プログラム)は、研究分野と国のボーダー、言語と制度のバリアーを超え、世界に開かれた研究拠点を日本につくることを目指して2007年、文部科学省が策定した研究拠点形成事業で、2019年現在、全国に13研究拠点が発足しています。

第2回は国際ナノアーキテクトニクス研究拠点(以下、WPI-MANA)の「ニオイセンサー」開発現場に潜入しました!

【清水 修, ブルーバックス編集部】

ニオイ──この茫洋たるもの

思えば、ニオイほど、つかみどころのないものはない。

目に見えない。でも確実に存在を感じる。ところが、その存在に慣れると感じなくなってしまう。子供の頃、おばあちゃんの家に行くと「あ、おばあちゃんちのニオイだ」とすぐ分かったが、当のおばあちゃん本人はそのニオイを感じていなかった。そこに確実に存在するのに、存在を感じていない人がいる。

ニオイには常に好悪の感情がつきまとう。人々は強烈な存在感を主張する悪臭から身を遠ざけようとし、良い香りにはついつい引き寄せられていく。悪臭を避けるために、悪臭防止法という法律もあるし、最近ではスメルハラスメントなんて言葉もある。また、良い香りを追い求めてフレグランスを購入し、心を整えようとアロマテラピーに通ったりもする。ところが、その好悪の感情も人によって千差万別。好きな香りの柔軟剤のニオイが他の人にはとっては耐え難いということもある。

さらに、ニオイは一気に記憶を呼び覚ます。何かのニオイを嗅いで過去の出来事を思い出すのは「シナノキの花のハーブティに浮かんだ一片のプチマドレーヌから怒涛のごとく記憶が蘇った」フランス人(プルースト『失われた時を求めて』)だけではない。誰もが経験していることだろう。おばあちゃんちのニオイもそのひとつである。

そして、ニオイと嫌悪の感情が結びつくと、差別を正当化する理由になったりもする。

特にレイシズム(人種差別を引き起こす人種主義)にはニオイの話がともなう。歴史上、世界中の様々な民族がその民族を嫌う他の民族から「くさい」と言われて差別を受けてきた。世の中の多くのニオイが「それを感じない人もいる程度のニオイ」であることを考えれば、「△△人はくさい」と言っている当の本人がそのニオイを感じていないことだってある。ニオイは先入観になりやすいのだ……。

なんて、とりとめもないことをつらつらと考えていたら、そのつかみどころのないニオイを定量的に測れる画期的な原理とツールを作ってしまった研究者を発見した。国立研究開発法人物質・材料研究機構(以下、NIMS)の世界トップレベル研究拠点(WPI拠点)である国際ナノアーキテクトニクス研究拠点(以下、WPI-MANA)の吉川元起さんだ。さっそく、我々、潜入チームはつくばの地へと向かった。

【 世界初の「実用化にもっとも近い嗅覚センサー」 】

「これが『ニオイセンサーMSS』です」

なんと、吉川さんが指し示してくれた『ニオイセンサーMSS(嗅覚IoTセンサー。Membrane-type Surface stress Sensor。以下、MSS)』は名刺入れよりも小さかった。 おお、つかみどころのないニオイをこんな小さなツールでバッタバッタと定量化できるわけですか!(バッタバッタはつい勢いで)

ニオイセンサーMSS(撮影:長濱耕樹)ニオイセンサーMSSのモバイルプロトタイプ機(撮影:長濱耕樹)

「いえいえ、ことはそう簡単ではないのです。このようなツールでもニオイを測ることはできますが、そのデータから何のニオイがどれだけ漂っているかを判断する解析が必要なんですね」(吉川さん)

なるほど。その詳しい事情は追い追いうかがうとして、この画期的成果を挙げたWPI-MANAの若手ホープを紹介しておこう。

吉川元起 グループリーダーはもともと、東京大学大学院理学系研究科や東北大学金属材料研究所で表面科学の研究をやっていたが、2007年からスイス・バーゼル大学のクリストフ・ガーバー博士の研究室で嗅覚センサーの研究を始めた。スイス滞在中からハインリッヒ・ローラー博士や、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)の秋山照伸博士、ピーター・フェッティガー博士らと新しいセンサーに向けての議論をはじめ、帰国してWPI-MANAに移籍した後、2011年にMSSに関する論文を発表。現在は柴弘太 主任研究員、今村岳 独立研究者とともにMSSの研究をさらに進めているとのこと。

右から吉川元起さん、柴弘太さん、今村岳さん(撮影:長濱耕樹)

そもそも、人間の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうち、嗅覚のメカニズムは長い間、謎のヴェールに包まれていた。ニオイは鼻や口から入ってきた物質の分子を認識する感覚なので、鼻に分子を受け取る受容体(Gタンパク共役受容体)があることは推測されていたが、その詳細は定かではなかった。

1991年、リチャード・アクセルとリンダ・B・バックという2人の研究者がそれを明らかにした。ヒトは約400種類の嗅覚受容体遺伝子を持っていること、そして、それだけの種類の嗅覚受容体が鼻の中に備えられていることを発見したのである。彼らはこの功績によって、2004年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

「20世紀末になってやっとメカニズムが明らかになった嗅覚は、当然、その人工的センサーの開発においても他の四感(視覚、聴覚、触覚、味覚)より遅れています。

これまでさまざまなグループや企業が嗅覚センサーを開発してきたのですが、これらは基本的に『一点モノ』だったので、広く規格化していろんな分野に応用したり、日常生活で利用したりするまでには至っていません。

これに対して私たちが開発したMSSは、使いやすく性能が高いということもあって、規格化・製品化できる可能性が高い嗅覚センサーということができます」(吉川さん)

MSSの標準計測モジュールは、第一世代、第二世代と進化を重ね、最近、第三世代が完成したそうだ。

ヒトの鼻並みの精度!?

【 ヒトの鼻とMSSの微妙な関係 】

この30年ほどでようやく明らかになってきた「鼻がニオイを嗅ぐメカニズム」。MSSの原理を知るためにはこのメカニズムを知らねばならない。

空気中から鼻に入り込んだニオイ分子はまず、鼻腔の天井部にある嗅細胞によって感知される。嗅細胞の先端の嗅繊毛に嗅覚受容体(つまりセンサー)があり、ここでキャッチされたニオイ分子は嗅細胞で電気信号に変換される。

その電気信号は嗅球を経て、脳の前梨状皮質、扁桃体、視床下部、大脳皮質嗅覚野(眼窩前頭皮質)などに伝わり、情報分析されて「あ、○○のにおいだ!」と認識されるのである。 前述したように、ヒトには約400種類の嗅覚受容体があると言われている。

ニオイを感じるしくみ 参考:ブルーバックス『新しい人体の教科書 下』

この経路だけ聞くと分かりやすいが、吉川さんが言うように、ことはそう簡単ではない。

問題はニオイと受容体が一対一対応ではないということだ。

「ひとつのニオイ」は、数種から時には数千種もの分子で構成されており、それぞれの分子は、複数種類の受容体と結合する。こうして結合した受容体のパターンを脳が過去の記憶と照合してニオイを認識する。

世の中に存在するニオイ分子は数十万種類あると言われており、それぞれが複数の異なる受容体と結合するのだから、ニオイを同定するための「結合する受容体のパターン数」はどんどん無限に近づいていく。まあ、鼻と脳ってすごいってことですよね。

「MSSでは鼻における受容体の代わりに、センサーの上に塗った『感応膜』というものでニオイを捉えます。飛んできた分子がこの感応膜にひっつくと、分子の性質に応じて膜がちょっと歪むというか、変形します。ほんの少しだけ。その変化を電気信号に変換してデータにするのです。

鼻の中の嗅覚受容体がおよそ400種類もあることを模して、感応膜もさまざまな材質でたくさんの種類を作っています。現在、すでに数百種類の感応膜があって、すべてセンサーとして機能することを確認しています」(吉川さん)

MSSおよび感応膜の構造と動作原理(「MSSフォーラム」より転載)

となると、ほとんど無限みたいな「結合する受容体のパターン数」に当たるデータ、つまり、どの感応膜が反応するかというデータを貯めて、それを記憶のデータベースにする作業が必要なはず。照合して「あ、○○のにおいだ!」と答えを出すために。

「そうなんです。それが大変。とにかく膨大なデータを貯めていって、そのデータからニオイを同定するAIが必要になってくるわけです」(吉川さん)

【 MSSアライアンスとMSSフォーラムを設立 】

ここで少し、実験室を見学させていただくことにした。

まずはMSS標準計測モジュールの初号機、二号機、三号機。じゃなくて、第一世代、第二世代、 第三世代。これらのモジュールにはニオイ分子を送り込むためのポンプが付いているが、ポンプを使わない測定方法も開発している。これについては今村岳さん(前出・独立研究者)が説明してくれた。今村さんはこの吉川チームにおいて、主にデータ解析の精度を上げる研究を進めている。

「新しい解析方法を開発して、さらに精度を上げていくことによって、ニオイにMSSをかざすだけで計測できるようになりました。ポンプがない分、システム全体を非常にコンパクトにすることができます」(今村さん)

左から第一世代と第二世代のMSS標準計測モジュール。右はモバイルプロトタイプ機(撮影:長濱耕樹)

次に、感応膜を作製しているところを見せていただいた。柴弘太さん(前出・主任研究員)はこの吉川チームにおいて、さまざまな材質の感応膜を作っていくという研究をしている。

「センサー部分の上にインクジェットで感応膜の材料をポタポタと垂らします。やがて溶媒が揮発して少しずつ膜になっていきます。他にも作製方法として材料が溶解あるいは分散した液体にセンサー部分を浸す方法などがあります。

いろいろな方法で作ってみて、最も効率的で品質を保てる作製方法を模索しているんです」(柴さん)

インクジェット塗布装置(撮影:長濱耕樹)

日夜研究を続ける研究チーム。このような基礎研究と並行して、実用化に向けての動きも進んできた。


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