WPIで生まれた研究READING

化学に革命をもたらす”計算の力”──ICReDDが描く未来の反応地図(後編)

2025年09月10日掲載

計算が導く新素材

この方法を用いた最先端の材料開発に成功した例も出ている。

力を加えられた材料は普通、脆くなったり壊れたりする。しかしメカノフォアと呼ばれる材料は、逆に強くなる性質を持つ。ただし従来のメカノフォアには熱や紫外線に対して不安定という欠点があり、高温環境や屋外使用に適さず、応用範囲が限られていた。

この課題に対し、ICReDDのPIで、高機能ゲルなどを研究する龔剣萍(グン・チェンピン)さんらは、熱や光に強く、かつ引っ張りに応じてラジカルを生成する新しいタイプのメカノフォア「カンファンジオール含有ダブルネットワークハイドロゲル」を開発した。化粧品の成分として利用される有機化合物のカンファンジオールを含み、固くて壊れやすい高分子ネットワークと、柔らかくて粘りのあるネットワークを組み合わせた「筋肉のような機能を持つ」(前田さん)ゲルである。

この構造を見つけたのが、前田さんの研究チームの江居竜(ジアーン・ジュロン)さん(現・ICReDDのジュニアPI)だ。ジアーンさんらはNNPモデルを取り込んだ反応経路探索で計算し、分子の中で、引っ張りの力が集中して分子をねじるノード構造に着目し、どのような形の分子が、反応性の高い(不対電子を持つ)ラジカルを効率よく生むかを理論的に予測した(図6)。

図6)本研究の手順の概要。拡張AFIR法と機械学習ポテンシャル技術を組み合わせた検討により、理解と予測に基づいて自己強化ゲル材料を開発した。

「いろんな分子について、どういう構造だと切れやすく、そこから出てきたラジカルがなかなか失われず、結果として分子を固くするかをまず計算で試しました。それで『これがその分子です』と実験してもらったところ、今までよりも高機能な材料が実際にできたのです」(前田さん)

将来のためデータベースを作る

前田さんは「予測を活かせるフェーズに入ってきた」と感じているという。

「コンピューターで化学反応を予測するという試みに実験科学者は最初は半信半疑というか、むしろ信じていませんでした。そういう状況からスタートしたわけですが、WPI拠点に採択されて7年の間に、現在では成功例が増え、数百の原子からなる分子も扱えるようになったおかげで実験科学者の関心が高まってきています」(図7)

AFIR法やその他のテクノロジーがはじき出した反応経路から人間が学び、具現化する時代がはじまっているのだ。コンピューターが人間にもたらす創造的ヒントは今後さらに洗練されてゆくのだろう。そんな中、人間の役割はどう変化するのだろうか。

「どんな反応が面白いか、今の社会のニーズに重要かを考えるのは人間の仕事です。AFIR法はそういう点をまったく考慮しません。あくまで人間の創造性を補完するツールです。しかし化学の流行に左右されず多様な化学反応を予測できる点こそがメリットだと考えています。今すぐには実用化されない反応でも、将来『この反応が必要だ』となったとき、すでにその予測がICReDDのデータベースに入っている。そういう世界を目指しています」(図7)

図7)化学反応創成プラットフォーム「SCAN」(Searching Chemical Actions and Networks)
AFIR法から生み出された化学反応経路データを、ソフト等を一切インストールすることなく、ウェブ上でクリックのみで検索、可視化、探索、設計を実現するプラットフォーム。
https://scan.sci.hokudai.ac.jp/

化学に基づくアルゴリズムが人間の代わりに分子構造が形作る仮想的な山脈を駆け回り、峠の高さや道の通りやすさを猛スピードで坦々と調べて地図に詳しく書き込み、その範囲を広げていく。将来、その地図が人を導く道しるべになる。

ラボを超えて反応が起きる

計算、情報、実験の融合はどのような研究環境の中で育まれているのだろうか。

2023年に完成したICReDD研究棟。その中を歩くと、異分野の研究者同士の「反応」を活性化する仕掛けがいくつかあることに気づかされる。

その一つは、フュージョンリサーチオフィスだ。実験スペースとデスクスペースに大きく分かれるが、パーテーションなどはなく、全体が一望できる。デスクスペースは吹き抜け空間で、明るく開放的だ。

ICReDD棟のフュージョンリサーチオフィス

PIには個室が与えられているが、それ以外の研究者は分野を問わず、普段はこの場で過ごしているという。教授をはじめとして助教、大学院生、学部生が同じ研究室(あるいはその付近)に身を置く一般的なスタイルとは異なる。

前田研の一員で、ここまで紹介した研究にも加わっている特任教授の原渕祐さんは「アポを取らなくても話せる場所が日常的に確保されていることに意義がある」と語る。

「多くの研究機関では、異なるラボの人と話すにはまず所属の教授に相談して、しかるべきルートを通す必要があります。しかしICReDDのフュージョンリサーチオフィスでは、ラボを超えて自然と会話が生まれ、そこから新しいアイデアが芽生えるんです」

融合研究の土壌

融合を深める仕掛けは、一つの部屋に研究者が集う”ワンルーフ”の環境という物理的なものだけではない。

「異分野にまたがる共同研究を若手研究者が立ち上げることを奨励する『融合研究スタートアップ』という支援制度も、融合を生み出すきっかけになっています。3年前から毎年18~19件の課題が採択されて、それぞれ共同研究が走りだしています」(原渕さん)

前田さんによれば、若手研究者は半ば強制的にアイデアを出すことを求められるのだという。

「若手同士でディスカッションしてもらうことがその狙いです」(前田さん)

ボトムアップ型の研究支援制度が「融合研究スタートアップ」とすれば、トップダウン型の戦略的重点課題がフラグシップ・プロジェクトである。ICReDD設立以来、「計算科学・情報科学ツールの開発」「ゼロからの新化学反応発見」「スクリーニングによる触媒の設計と発見」「メカノケミカル合成の探究」「高分子の物性・生成過程・劣化過程の解明と制御」「新素材や新計測技術を活用したがん診断」の6テーマが走っている。

フラグシップ・プロジェクトは予算規模も大きく、ハイインパクトの成果を狙う拠点の顔と言えるものだが、原渕さんは「融合研究スタートアップ」で築かれた人間関係がその推進力になっていると指摘する。

人と人との化学反応

2023年に「融合研究コーディネーター」となった原渕さん自身も、融合研究の橋渡し役を務める。

原渕 祐 特任教授・融合研究コーディネーター

「若手研究者全員と話して、誰と誰で会議をしようと提案したり、フラグシップ・プロジェクトの会議に出席したりしています。週に15〜20件の会議に出ています。日中はいつも誰かと話しています」

前田さんは原渕さんがしばしば研究者と「喧嘩」する場面を目の当たりにするという。

「海外の先生とも議論してヒートアップするんです。私はヒヤヒヤしながら横で見ています。激しく議論して最後には仲良くなる。それが彼の戦略なんです」

「戦略じゃありません」と原渕さんがすかさず否定する。

前田 拠点長(左)と、原渕 融合研究コーディネーター(右)

「相手の言葉にただ『いいですね』と賛成しているだけで融合研究はできません。考えが違う場合には違うときちんと伝える必要がある。ぶつかり合いの中から新しいアイデアが生まれることもあります」

AFIR法と同様に反応を起こすには、ある種の「力」が必要なのかもしれない。ただし、この場合、コンピューターの中の仮想的な力ではなく、人と人の間に働く感情や意思の力である。融合は決して生やさしいものではないのだ。

前田さんは、ICReDDの研究者同士がフラットな関係を築いていると感じているという。

「大型プロジェクトには、リーダーを中心に意思決定が行われる体制が一般的だと思います。これに対して、ICReDDは異なる分野の研究者同士が対等に話し合いながら融合研究を進める体制になっています」

前田さんはWPI拠点としては最年少の39歳で7年前に拠点長に就いた。「強く言わないというよりは、そういうのが苦手で言えない」と本人が言うとおり、ぐいぐい人を引っ張っていくタイプというよりは、控えめな人柄だ。

しかしその姿勢がICReDDを率いる上で、功を奏している。

「前田先生の頭には研究者のリアクションマップが入っているんじゃないか」と語るのは、ICReDD研究支援部門長の山本靖典さんだ。この場合、リアクションマップとは、誰と誰が共同研究のパートナーとなりえるかを表す人物相関図のようなものだ。

「前田先生は学生やポスドクを含むICReDDの全研究者と面談して、一人一人の関心や強み、現在の研究内容を把握しています。『この人とこの人が組めば面白い』とさりげなく橋渡しをすることもあります」

前田さんや原渕さんはICReDDの触媒として、化学反応創成を掲げる研究拠点ならではの組織運営スタイルを実践しているように見える。人と人との反応が、新たな融合研究を、そして(科学的な成果という意味での)革新的な化学反応を生み出す原動力なのだ。

【取材・文:緑 慎也、写真提供:株式会社 アンドボーダー、図版提供:WPI-ICReDD】


関連情報