ロボットが教えてくれる「偏見のない世界」の作り方(下)
認知ミラーリング技術で共感し合う社会(下)
好評シリーズ「WPI世界トップレベル研究拠点」潜入記 第6回!
WPI(世界トップレベル研究拠点プログラム)は、異なる研究分野間、言語と文化の垣根を超えて世界の英知が結集する、世界に開かれた国際研究拠点を日本につくることを目指して2007年、文部科学省が策定した研究拠点形成事業で、2020年現在、全国に13研究拠点が発足しています。
6回目となる「潜入記」の舞台は、東京大学 国際高等研究所 ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)。「認知ミラーリング技術」の研究で知られる認知発達ロボティクス研究室の長井志江特任教授にお話を聞いてきました。
【清水 修, ブルーバックス編集部】
脳の共通原理を追求し続けるロボット工学者
脳の機能に関しては、有名な「ブロードマンの脳地図」というものがある。
大脳の各部位を役割ごとに区分した地図である。この地図を見ると、誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、前頭前野とか視覚野などといった部位の名称が並んでいる。各部位には役割が決まっていて、それぞれの機能を持っている、というのが昔からの脳機能の常識だった。
<ブロ-ドマンの脳地図>グレイ(H・Gray)のAnatomy of the Human Body, 20th ed. の図
「たしかに、脳の部位は遺伝的に大体の役割分担が決まっています。しかし、機能ごと、行動ごとに完全に役割分担されているわけではありません。ひとつ、その例を挙げてみましょう。脳の後頭部にある視覚野は視覚情報を処理する部位です。しかし、視覚障害者は視覚情報が脳に入ってきません。代わりにたくさん入ってくるのは触覚情報。ですから、視覚障害者の視覚野はだんだん触覚情報を処理するように変わっていくのです。脳はそのくらい柔軟にできているわけですね。
柔軟に脳を使っていくために、個々の部位の役割は全体を貫く共通原理に基づいて生まれるのではないかと思っています。脳には部位に依存しない共通原理があって、ちょっとした変動で役割が変化する。同様に、自閉スペクトラム症などの発達障害も、ちょっとした変動による脳機能の変化で説明されるべきなのではないか。それが私の仮説です」
なるほど、その「共通原理」の検証のツールとしてロボットがある、と。
どちらでも良いことなのかもしれないが、長井特任教授は「脳を追求するロボット工学者」なのか、それとも「ロボットをツールにした脳科学者」なのか、どちらなのだろうとだんだん気になってきた。どちらなのでしょう?
「たしかにおっしゃる通り、自分でも何が本当の専門分野なのか時々分からなくなります(笑)。今の私の学術的興味の80%から90%くらいは『人間を知りたい』ということですから……。
研究者の道に進みはじめた当初は、ロボット工学者として『賢いロボットを作りたい』と思っていました。だから、自分が作ったロボットにどんどん学習させていったのですが、どんなに学習させても、ロボットがやることは人間が直感的にやった結果よりもずっと劣っていたのですね。それで、『結局、私が1年も2年もかけて作ったネットワークモデルって何だったのだろう?』と思うようになりました。そこから『じゃあ、そもそも人間ってどのように学習しているのだろう?』ということに興味が移っていき、現在の方向性になりました」
そして現在は、医学者や脳科学者の集団であるWPI-IRCNに所属するロボット工学者となっている。脳科学の発展には工学者の目も必要なのだ。
はたして感情を持つロボットは作れるのか
実は、ひとつ、どうしても聞きたいと思っていた質問があるのです。趣味というか、単なる興味本位の質問なのですが、うかがってよろしいでしょうか。
「どうぞ。もちろん良いですよ」
(うーん、オンラインインタビューだと、本当に良いと思っていらっしゃるか、感じ取れないけど、質問しちゃえ)
米国の『スタートレック ネクストジェネレーション』というSFドラマにはデータという名前のアンドロイドが出てくるのですが、彼は「いつか、人間のような感情を持ちたい」と望んで、日々、人間の行動を研究しています。
その一方で、手塚治虫の漫画『火の鳥』に出てくるロビタという名前のロボットは唯一、感情を持っているロボットで、1体のロビタが裁判で死刑判決を受けると、世界中のロビタが溶鉱炉に身を投げて集団自殺をしてしまいます。
そのように、物語の世界では、感情を持てないロボットも感情を持つロボットも両方出てくるのですが、長井先生は「感情があるロボット」はいつか作れると思いますか。
「実は私が今、一番興味を持っているテーマはそれなのです。質問への答えとしては『作りたい』ですね」
(本当に聞いて良かったんだ。ほっとした)
「人間には『外受容感覚』と『内受容感覚』があります。外受容感覚は外部から入ってくる情報を感じる感覚。内受容感覚とは、たとえば、お腹が痛いとか、心臓の鼓動を感じるなど、身体の内部から感じる感覚です。このふたつが感情を作り出すと言われています。
従来のロボット研究では、外受容感覚で入ってきた情報を使って学習するロボットを対象としていました。それではいくら学習が進んで高いパフォーマンスを示すようになっても、ロボットはいつまでも感情は持てないわけです。今、ロボット研究や人工知能研究で一番欠けている部分はこの『内受容感覚を取り扱うこと』ですね。その部分が進んでくれば、いつか感情を持つロボットを作れる日も来るのではないかなと思います」
しかし、人間の内受容感覚に関しては未知の部分が大きいのだという。未知であれば人間を参考にしてニューラルネットワークモデルを作ることも困難だ。
「だからといって、脳科学の側からの『人間の内受容感覚の解明』をずっと待ち続けているわけにもいかないので、我々、ロボット研究の側からも「感情を持つ」モデルを考えて提示していきたいと考えています。そのようなモデルを検証することによって脳科学発展に資することもあるのではないでしょうか。これは今後の研究テーマのひとつです」
長井志江先生とロボット
今までの限界を超えた人工物をめざして
そろそろインタビュー時間も終わりに近づいてきました。今後の研究の展望をお聞かせいただけますか。
「予測符号化理論が脳のどの原理まで適用可能なのかを追究していきたいですね。また、予測符号化理論が脳の個人差をどこまで説明できるのかということも追究したい。今まで、人間の知能の発達は定型発達と発達障害というふたつに分類されてきたのですが、本当はふたつに線引きできるものではなく、個人差のグラデーションが続いているものだと思うのです。自閉症が自閉スペクトラム症という考え方になってきたように、グラデーションを表す軸があって、人間は誰でもその軸のどこかにいる。敷居を設ける必要はないですね。
ニューラルネットワークモデルを作っていると、ほんの少しのパラメータの違いで学習がうまくいくケースとうまくいかないケースがあります。結果は歴然だとしても元をたどれば些細な違いしかない。だから、わざわざ線引きをして人間を分類して社会を分断しなくても、それぞれの違いを生かした発達や成長の在り方があるのではないかと思っています。科学の側面から『多様性の受容』を社会に促していきたい」
偏見やスティグマは人の心の中にあるものだが、近現代においては科学的な知見がその論拠とされてしまうことも多かった。だからこそ、今後は科学が偏見やスティグマを払拭するための論拠となってほしい。それでこそ、公共に資する科学であろう。
「でも、科学者としての私の中には素朴な疑問もあるのです」
素朴な疑問……。どのような?
「それは『なぜ、どのようにして、脳が予測符号化という情報処理機能を獲得したのか』ということです。もし、人間の脳が予測符号化などせずに外からの情報をダイレクトに受け取って処理していたら、錯視など起こらないはずですよね」
たしかに、感覚信号をより正確に認識したいのであれば、予測機能を抑えるほうが合理的だ。毎回、錯視する必要はない。
「そこが不思議なのです。何か、そうしなければならない深い理由があるのではないかな、と。今のところ、その理由や機序は分かりませんが、いずれにせよ、そのような『人間の中で起こっている、一見、非合理的にも思える現象』をニューラルネットワークモデルに実装させることができた時、『今までの限界を超えた人工物』が作れるのではないかといつも思っています」
人間は合理性だけでは生きていけない存在だ。
時には非合理に見えるものにも価値を見出し、それが生きる支えになったりもする。
その非合理の根源は私たちの身体の奥底にあるものなのか。いつの日か、ロボットがその本当の意味を教えてくれるのかもしれない。
(2020年6月26日。Zoomによるオンラインインタビューにて)