WPIで生まれた研究READING

リトリートでの出会いをきっかけに 異なる研究分野のコラボ、実験と理論の融合が実現 (WPI-I2CNER後編)

水素脆化(ぜいか)の克服に共同で取り組むWPI-I2CNER(九州大学カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所)物質変換科学ユニットの主任研究者で機械工学者の久保田祐信さんと同じくI2CNERの研究者で理論化学を専門とするアレキサンダー・ステイコフさん。二人が意気投合する機会となったリトリートは、とある温泉地で二日間行われた。昼間はセミナーをし、夜は温泉でくつろいだという。

「日本のリトリートは独特で、面白いですね。セミナーが終われば私たちも雑談をしますが、研究以外の話を30分以上続けられないのが科学者の性です。いつのまにかお互いの研究についてのディスカッションがはじまります。普段セミナーを行ってもその後すぐ家に帰るので内容を忘れてしまいますが、リトリートではお互いのプレゼンを聞いた後に1対1で話し合う時間がたっぷりある。そのおかげでリトリートから多くのコラボレーションが生まれています」(ステイコフさん)

リトリートでプレゼンするステイコフさん

I2CNERの支援部門長で、経済学や社会学の観点からエネルギー政策を研究するアンドリュー・チャップマンさんは「堅苦しい場所で共同研究は生まれない」と語る。

「共同研究は多くの場合、学術発表会の後、食べたり、飲んだりしているときの話し合いがきっかけではじまります。合宿でなくてもいいんですが、オフの時間に『この人と一緒に研究してみたい』という気持ちは芽生えやすいんです」

アンドリュー・チャップマンさん

I2CNERが目指しているのは、拠点名にも含まれているカーボンニュートラルの実現である。この大目標を達成するため、I2CNERの三つの研究部門はそれぞれ中間目標を設定し、ロードマップにまとめている。久保田さんが属する研究部門「物質変換科学ユニット」もロードマップを策定し、その中で「Predictive Models of H2 – Assisted Cracking(水素が助長する亀裂の予測モデル)」が掲げられている。水素脆化を予測するモデルを作るプロジェクトだ。

「国は水素基本戦略(2017年)、第5次エネルギー基本計画(2018年)、水素・燃料電池戦略ロードマップ(2019年)などを策定し、実際に水素を安全に利用するためには超高圧の水素中で材料の試験を行い、そのデータを国が諮問する委員会で安全性を評価する手順が採られています。現状では実際の現象を計測するしか評価手段がありませんが、もし予測モデルがあれば、多くの時間とコストを省くことができます」(久保田さん)

航空機や自動車の開発でも、風洞(人工的に作った風を試験体に送り、その作用を調べる装置)を用いて実機の試験が行われているが、コスト面、スピード面で優れる数値風洞、つまり予測モデルによるシミュレーションで置きかえるべく研究開発が進んでいる。水素脆化も予測モデルによるシミュレーションで材料の安全性を評価できるようになれば、水素社会への移行が早まるに違いない。

久保田さんとステイコフさんの共同研究も水素脆化の予測モデル作成を見据えて構想されたものだという。

「水素脆化のメカニズムを理解した上で、予測モデルを作りたいと考えています。予測モデルが正確ならシミュレーションで実験を省いたり、回数を減らしたりできます。そうなると、われわれの仕事はなくなってしまうのですが(笑)」

久保田さんはこれまで鉄道、船舶などの事故の鑑定人、準鑑定人として裁判に参加したり見解をまとめるための手助けをしたりして、また企業内で発生した破壊の解析をしたりなどの活動を通して社会に貢献してきた。The Effect of Rubber Contact on the Fretting Fatigue Strength of Railway Wheel Tire, Tribology International, Vol.42, pp.1389-1389 (2009)という論文もある。1998年にドイツで発生した鉄道脱線事故の原因となった金属疲労による破壊を検証したものだ。

「飛行機に乗るときにいちいち遺書を書く人はいませんよね。それだけ飛行機が安全な乗り物になったのは機械工学の研究者たちが壊れないような設計をし、技術者が正確に組み立てて飛ばしているからです。われわれは何か事故が起きると表に出ることもありますが、普段は日陰の存在です。しかし、表に出なくて済むように、安全、安心な社会を支えるのがわれわれの役目です」(久保田さん)

一方、ステイコフさんは元々、水素脆化を研究するつもりはなかったという。

「理論化学者で水素脆化の研究をしている人はいませんでした。私たちにはとって馴染みのない分野だったのです。私は指導教員に勧められてI2CNERに入りましたが、最初は不安を感じていました。理論化学者の同僚たちからは『君は間違った選択をした』とか『誰も君の論文を読まないよ』などと言われたものです。しかし、久保田先生、ソフロニス先生、サマデー先生らとディスカッションして、水素脆化に興味を持ちましたし、とても魅了されました。理論化学が貢献する余地は大きいとも思いました。最近では酸素、一酸化炭素、アンモニア以外に水素に混ぜる不純物として他に有望な候補物質がないか機械学習で探索する研究に取り組んでいます。実験と理論の融合により、最適な物質を見出したいですね。WPIという事業がなければ、この出会いはありませんでした。何の関係もなさそうに見える分野同士を融合し、共通の目標に向けて研究するWPIの価値の一つです」

2020年、I2CNERはWPIアカデミーに移行した。過去10年の補助金支援期間が終了し、研究現場はどう変わっただろうか。

「それまでは研究の比重がかなり高かったのですが、I2CNERがWPIアカデミーのメンバーとして活動できるのは九州大学の手厚い支援のおかげもあるので、I2CNERができる、研究以外での九州大学への貢献も考えるようになりました。工学部機械工学科の教授も兼務しているので、講義や学生の指導も行わなければなりません。いろいろな業務は忙しいですが、学生と一緒に研究をできるメリットもあります。一人では大変でも、学生と一緒だと質の高い実験をいくつもできます。学生の中にはドクターに進学して、優秀な若手研究者になる人も出てきました」(久保田さん)

左からステイコフさん、久保田さん、チャップマンさん

ステイコフさんは「WPIによる初期の支援が、種まきの役割を果たした」と指摘する。

「最近久保田先生と進めている共同研究の計画が科研費に採択されたり、フランス企業の支援を受けたりしているのは、WPIの初期の支援を受けてわれわれが成長できたおかげだと考えています。私の研究には計算資源を要しますが、その費用をWPIの支援で得られたのもありがたかったですね」

コロナ禍のため2年ほどリトリートは中断されている。久保田さん、ステイコフさんとも早期の再開を願っているが、リトリート以外にも融合研究が生まれる機会は多いという。

「I2CNERが隔週で開催している『IISS(Institute Interest Seminar Series)』はその一つです。主に若手研究者が自分の研究について1時間程度プレゼンし、その後ディスカッションします。自分の専門分野とは異なる分野の研究を隔週で聞く機会は貴重で、私も勉強になります。その中で、高温での燃料電池を研究している人の話を聞いたのを機に、高温での水素脆化に興味を持ち、調べるとまだそのあたりについての研究がないことが分かりました。今、ステイコフ先生とその研究を進めています」(久保田さん)

ステイコフさん(左)、久保田さん(右)

異分野研究者の話をまず聞く。それが融合研究の最初のきっかけになる。コミュニケーションの「濃さ」の点では対面がオンラインに勝るが、オンラインは回数や参加人数を増やしやすい点では対面に勝る。感染状況に合わせて対面、オンライン、そして両者のハイブリッドなどの方式を選ぶことになると考えられる。久保田さんやステイコフさんの研究活動からわかるのは、積極的に異分野の研究者の話を聞き、学び合う姿勢が融合研究を生むということだ。

【取材・文:緑 慎也、写真・図版提供:WPI-I2CNER】


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