組織の不公平を、災害対策の視点で解消する ―インクルーシブな研究環境づくりを目指して―
東京工業大学地球生命研究所(ELSI)
イノベーションは異分野の研究者が協力することで生まれる。この発想が、WPIミッションの核にある。だが、もし性、人種、障がいなど、個人のアイデンティティによって人と人との間に壁が作られていれば、どうなるだろうか。研究分野レベルの融合が絵に描いた餅になるのは言うまでもない。ところが、この根深い分断は、米国のBLM(ブラック・ライブズ・マター=黒人の命も大切だ)運動を持ち出すまでもなく、多くの場合、当事者が声を上げるまで見過ごされる。
「職場の多様性を高める取り組みに反対する多くの人は、すでに自分たちの職場は誰にとっても公平で、新たに何かしても無駄だと言います。残念ながら、そうした取り組みのいくつかが、人々に負の感情をもたらす環境を根本から変えるものではなく、単なるショーに過ぎないのはたしかです」
と語るWPI-ELSI(東京工業大学地球生命研究所)のクリスティン・ハウザーさんは、2012年に設立されたELSIの初期メンバーの一人。地震学の観点から地球の内部構造を調べる固体物理学者で、災害対策にも取り組む。
クリスティン・ハウザーさん
ハウザーさんによれば、職場の多様性を高める取り組みと、自然災害への対策の間には共通点があるという。
「両者は異なっているように見えますが、実際のところ密接な繋がりがあり、自然災害で影響を受けやすい弱点を探るのに使うのと同じツールが、社会構造の弱点を探る目的にも役に立つのです。そのツールを使いこなし、普段から弱点の克服に取り組んでいる組織は復元力(resilience)を持ち、危機に直面しても速やかに回復できます」
【 GET設立へ 】
地震、津波、台風など、自然現象による災害が発生した時、社会的弱者がとりわけ大きな影響を被る事例を、われわれは何度も見てきたし、今なお目の当たりにしている。自然災害の場合だけではない。戦争や金融危機はもちろん、職場での人間関係のいざこざ、文化的衝突などの場面でも、大きな影響を被りやすいのは、やはり社会的弱者だ。
だから地震対策として家具に転倒防止策を施したり、食料を備蓄したりするように、人間活動がもたらす「災害」にも普段からの備えが大切だ。
「どちらの場合も、まず必要なのはデータ収集です。地震規模を知るための地震計、台風の接近速度を知るための気象衛星がなければ災害対策計画を立てることはできません。同じように、組織を構成するメンバーがどんな経験をしているかについてのデータがなければ、職場環境にどんな不公平があるのか知ることができないのです」
ハウザーさんはELSI内で、研究者、技術支援員、その他スタッフからの困りごとを受け付け、職場環境の改善や多様性の向上に取り組むチーム、GETのリーダーを務める。GETは、”Global Environment Team”(国際環境チーム)の略。ただし2019年以前は同じ略称で、中身は”Gender Equality Team”、すなわち男女平等チームだった。
2016〜20年のELSI GET(Global Environment Team)のメンバー。
Credit: N. Escanlar/ELSI
「ジェンダー(性)は最も目立ちやすい個人のアイデンティティで、多様性に関する問題を特定するのに有用な手引きでもあります。男女平等を実現するための成功事例が、他のタイプの多様性を改善するのに活かせることからGETのGEを、Gender EqualityからGlobal Environmentに変えました」
GETの設立は2016年。ELSIの研究者2人がゴールドシュミット国際会議(地球化学に関する研究集会)のあるセッションで男女平等、多様性、インクルージョン(包摂、共生)について学んだのがきっかけだ。2人は、こうした問題を解決するためのチームがELSIには必要だと考え、ハウザーさんに声をかけた。
「それまで個人的に多様性やインクルージョンについて興味は持っていましたが、他のメンバーも同じかどうかはわかりませんでした。彼らから、多様性の向上に取り組む自立的なチームに参加してほしいと依頼されたときは、胸が高まりましたよ」(同)
ハウザーさんに呼びかけた1人で、地球内部のコアについて研究するマリーヌ・ラスブレイスさんは以前こんな経験をしたという。昇進に伴い、所内に新たな部屋を探したところ、ある2人部屋が見つかった。すでに男性研究者が1人入っていたが、空きスペースを利用したいと事務室に申し出た。ところが、男女同部屋は避けるほうがよいという慣行があったため、ラスブレイスさんには別の女性研究者と2人で利用する部屋が割り当てられた。そこは希望する研究ブロックからは少し離れていた。
ラスブレイスさんは、日本の文化的背景、実際的事情から男女同部屋は避けたいという説明を受けたが、不満を感じないわけではなかった。本来なら得られるはずの意見交換の機会が、性が違うという理由で制限されるからである。GETはこの件について事務室と話し合いを重ね、部屋配置の決定は覆されなかったものの、この処置が国際的基準からはずれていることなどの点について理解は得られた。
【 目標30% 】
GETの働きかけで、ELSIは、研究者の30%を女性にするという目標を掲げている。なぜ30%なのかといえば、地球を研究する科学者のコミュニティ全体で、そのくらいの割合が女性だからだ。時期によって増減はあるものの、ELSIでは、女性比率30%前後が保たれている。
もう一つ、30%を目標に据えている対象がある。ELSIが主催するワークショップやシンポジウムでの講演者の女性比率だ。
GET設立当初からのメンバーの1人、ELSI国際連携コーディネーターのリチャルディー・華子さんによれば、この目標が掲げられるまで、ELSIの研究者には、欧米の、しかも男性の著名研究者を講演者として選ぶ傾向が見られたという。
リチャルディー・華子さん
「今では、講演者の30%を女性にするという目標をみなさん知ってくれています。しかし名のある有力な女性研究者は人数が限られているので、どこの講演会にも引っ張りだこで、オファーしても断られることが多いのです。そこで諦めて男性研究者を講演者に、という考えに陥りがちです。私たちは、最初にオファーした女性研究者に別の女性研究者や、その人のもとで研究している女性研究者を紹介してもらったらどうかといった提案をします」
講演者に誰を呼ぶかに関する議論に、その分野の部外者が加わると、煙たがられることはないのか。
「後から口を出すのは失礼なので、講演者を選ぶ最初の打ち合わせからGETは参加させてもらっています。やらなきゃいけないから、仕方がないから、という消極的な雰囲気を作らないことが大切です。研究者は研究にたくさんの時間を費やしたいはずなので、彼らの時間を無駄にしないために早い段階で私たちが関わって、なるべくスムーズに人選が進むように気をつけています。ただし絶対に女性比率を30%にしなければならないとこちらが強行に出ることはありません」
ハウザーさんは、「ジェンダー・バランスや多様性が、自然発生的に生まれる強固な土台を作りたい」と話す。
「早めにGETが人選のプロセスに関われば、一緒に解決策を探すことができます。多様性は、コミュニティ全体の取り組みの結果として実現できるのです」
プレート同士が押し合いへし合いしているうちに歪みが生じ、力のバランスが崩れたとき地震は発生する。歪みが大きいほど、地震の規模も大きくなる。多様性を実現しようとして「多」の要素のバランスの取り方を間違えれば組織に不協和音が生じ、下手をすると研究活動に支障が出る。GETの役割は、組織の歪みを発見し、力を解放して、暴発を未然に防ぐことにあるのだろう。
【 心に寄り添う 】
性に根ざす不公平以外にも、研究所では様々な歪みが生じうる。一般の企業でも、上司が部下に何か指示を出すとき、言葉の選び方やタイミング次第で、部下はプレッシャーを感じるものだ。それと同じようなことが研究者と技術支援員の間でも起こりうる。
こうした研究者と技術支援員のトラブルを解消する役割を担っているのが、ラボマネージャー補佐で、自らも技術支援員を務める永野麗子さんだ。
「主な仕事は実験室の安全管理です。実験器具を片付けていないとか、廃液を決まった場所に捨てていないといった人がいるというクレームを受けて、個人が特定できる場合は口頭で注意をしたり、特定できなくても研究ユニットごとのメーリングリストを利用したりして再発防止を促します。実験を進める上で困ったことがあれば、できる限りサポートします」
永野さんは、2015年に前職からELSIへ移ったのを機に、第一種衛生管理者の資格を取得し、研究者、技術支援員の健康増進に関わる業務にも携わるようになった。特に力を入れているのがメンタルヘルスの問題だ。
「メンタルヘルスについて人から話をきちんと聞く上では特別なスキルが必要だと考えています。こちらの対応次第で、相手の人生に影響を与えうるからです。そこで第一種衛生管理者とは別に、産業カウンセラー、心理危機介入カウンセラーなどの資格も取得しました。個人的にSNSで中高生のカウンセリングもしています。こうした活動を通じて学んだのは、研究者や技術支援員に声をかけるときも相手の心に寄り添わなければならないということです」
永野麗子さん
実験に関わる基本的なマナーからメンタルヘルスまで、永野さんがカバーする範囲は広い。一見、研究者の華々しい活躍の影に隠れがちだが、パンデミックに起因して研究活動や所内のコミュニケーションに制限が課されている今、永野さんの役割はますます重要性を増している。
【 改善を重ねる 】
2018年11月、ELSIは、アメリカ航空宇宙局(NASA)のメアリー・ボイテックさんをエグゼクティブデイレクターとして迎え入れた。地球外生命探査プロジェクトを立ち上げるなど、NASA Astrobiologyプログラムのディレクターとして活躍し、アメリカ全体の科学行政にも深く関与した宇宙生物学者が、ELSIの管理運営を率いることになったのである。
「ミッションを明確にした上で、『こういうシステムでやっていこう』と提案し、みんなの理解を得ながら組織作りを進めるのがメアリーの方法です。彼女のおかげで、システム改革が非常にスムーズに進むようになりました」(リチャルディーさん)
メアリー・ボイテックさんが来てから、劇的に変わったことの一つが、研究者やリサーチアドミニストレーター(URA; University Research Administrator: 研究費獲得の支援などを担う)の採用の仕方だという。
「ポジションによりますが、ELSIでは所内すべてのスタッフが、公募を見て応募してきた採用希望者のプレゼンテーションに参加できます。普通の面接を想像してELSIに応募してきた人はびっくりするでしょうね。たくさんの人の前でアピールしないといけないので」(同)
通常、企業でも、官公庁でも、多くの場合、採用に関与するのは、その組織の上層部と相場が決まっている。ところが、ELSIの場合、身分にかかわらずどんな人でも、採用希望者のプレゼンを聞いたり、その評価を伝えたりできるという。
永野さんもはじめて採用希望者のプレゼンを聞いた。
「技術支援員が、研究者のプレゼンを聞いて、それを評価できる仕組みを持っているところは、日本では珍しいでしょうね。でも、評価の透明性を高めるためにも大事なことだと思います。それに私たちも、一緒に研究したい、一緒に働きたい人を選びたい。メアリーがこちらに来てまもなく、彼女から話をしたいと呼ばれたんです。所長クラスの人が技術支援員を呼んで話を聞くことも、他の日本の研究機関ではほとんどないでしょう。どちらかというと、『テクニカルは黙って』っていうところのほうが多いんじゃないでしょうか(笑)。でも、メアリーはいろんな立場の人の意見を聞いてくれる。常に現状を改善していこうという意識を持ったトップの人が日本でももっと増えてほしいですね」
ELSIアゴラにて
【 先手を打つ 】
今回、ELSIにおける男女平等、多様性向上のための取り組みについて紹介してきた。しかしELSIに、日本の他の組織と比較して何かひどい不公平があるかといえば、ない。それでも変革の努力を絶やさないのは、「WPIのファンディングがあるから」とリチャルディーさんは語る。
「問題が生じてから対策を講じるのではなく、問題にならないように新しい取り組みをしようという発想がELSIにはあります。日本から、海外から、優秀な人材が集まる国際的な研究所を作るというWPIのミッションがあるからこそ、従来のやり方を変えなければならないんです」
どんな組織であれ、不公平はないに越したことはない。しかし、現実にはあからさまな不公平も、見えにくい不公平も存在する。だからこそ先手を打って男女平等と多様性向上を達成しようとするELSIに強みが生まれる。
「私たちの取り組みが、他の研究機関のモチベーションを高めるきっかけになれば嬉しい。透明性のあるコミュニケーションと多様性が、組織の強靱さと長寿の秘訣です」とハウザーさんは語る。
「科学は壮大な冒険です。それはあまりに大きく、私たち1人1人の冒険を合わせても、足りないほどです。前進し、新たな発見を成し遂げ、私たちの世界も他の世界も、これまでと異なる視点で捉えるには、私たちみんなの貢献が必要です。もし社会を構成する人々の一部が科学や学術の世界から欠けているなら、彼らの貢献が得られず、社会全体が損失を被ります。(Science is a big endeavor. It is bigger than any one of us. In order to make progress, to make new discoveries, to see our world and other worlds in a different way, we need everyone to contribute. If portions of society are missing from science/academia, then the whole society is missing their contribution.)」
【取材・文:緑 慎也、写真:貝塚 純一、資料提供:ELSI】