機械工学と理論化学のコラボレーションが 水素脆化の研究を新たな高みに(WPI-I2CNER前編)
水素は脱炭素の切り札と目されている。地球に豊富に存在する上、燃焼させても化石燃料のように温室効果ガスが発生せず、酸素と反応させれば電気が効率的に取り出せるからだ。しかし、水素をエネルギー源として活用する「水素社会」の実現には解決すべき課題がいくつかある。その一つは、水素を安全に貯蔵し、運搬する方法の確立だ。
水素は貯蔵用のタンクや運搬用のパイプラインに使われる鉄鋼など金属材料に侵入して、それを脆くしてしまうことがある。「水素脆化(ぜいか)」と呼ばれ、長年にわたり研究されている現象だ。厄介なことに水素脆化は材料の強度が高いほど発生しやすく、また、水素を超高圧で、つまり部材に大きな荷重のかかる状態で貯蔵・輸送する場合に特に大きな問題になり得る。さらに、低圧であっても水素に長期間さらされれば金属材料に水素脆化による亀裂が広がるなどの破壊が発生しかねない。(図1参照)
WPI-I2CNER(九州大学カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所)物質変換科学ユニットの主任研究者、久保田祐信さんは、水素脆化の克服に取り組む研究者の一人だ。
「水素ステーションのタンクでは、水素ガスが700気圧以上に圧縮されて蓄えられています。現状では、その超高圧に耐え、水素脆化を起こしにくいタンクとその周りの部品を作るのにかなりの費用がかかっている。その費用を大幅に下げる必要があります」
たとえ水素を環境負荷をかけず、安価に生産する手段が見つかったとしても、貯蔵や輸送も含めた利用に膨大なコストがかかるなら、水素社会への移行は進まない。
「運搬コストもネックになるでしょう。たとえばヨーロッパでは現在は天然ガスの移送に利用している何千キロものパイプラインを、将来、水素の移送に使いたいという構想があります。ところが、既存のパイプラインに水素をそのまま流すと水素脆化を起こす可能性があるかも知れない。水素に強い高価な材料で置きかえれば水素脆化を防ぐことはできますが、莫大な費用がかかる。低コストで、安全性を損なわず、水素脆化も防ぐにはどうすればよいのか。サイエンスの面から解決の糸口を見出したいですね」
久保田さんが注目するのは「不純物」。2022年1月には『Metallurgical and Materials Transactions A』誌、同年3月には『International Journal of Hydrogen Energy』誌で、それぞれ一酸化炭素、アンモニアを不純物として水素ガスに混ぜると鉄鋼材料の水素脆化を緩和する効果があると報告している。
「2013年にI2CNER所長ペトロス・ソフロニス先生、主任研究者のブライアン・サマデー先生らが水素ガスに微量の酸素を混ぜることで水素脆化を緩和でき、その効果を予測できるモデルを開発した重要な論文を発表しました。私は2014年にI2CNERに入り、それを機に水素中のさまざまな不純物が水素脆化にどんな影響を及ぼすか調べはじめたのです」 機械工学者の久保田さんは、水素の圧力や材料にかかる負荷などの条件を変えて実験を行い、不純物が鉄鋼材料の水素脆化に及ぼす影響を調べる一方、なぜ不純物が水素脆化を抑制するのか、そのメカニズムにも迫りたかった。しかし、久保田さんが専門とする破壊力学や水素脆化の知識だけでは難しかった。
「たとえば水素に不純物を混ぜると水素脆化が抑制されることはわかるのですが、なぜそういう結果が出るのかわからない。水素脆化により材料強度が低下する道筋はいろいろありますが、すべてに共通するのは、水素分子が分解され、水素原子として材料の内部に侵入していく反応が関わっていることです。しかし分子数個と鉄鋼材料の表面で起こる原子レベルの現象なので、どんなに最先端の顕微鏡を使っても見えません。そこで私と同じI2CNERの研究者で理論化学を専門とするアレキサンダー・ステイコフ先生の協力を得ました」
ステイコフさんによる理論計算が特に威力を発揮したのは、アンモニアが鉄鋼材料の水素脆化に及ぼす影響について共同研究していたときだったという。
「少量のアンモニアを添加すると水素脆化がひどくなったので、アンモニア量を増やしたらもっと水素脆化が進むのかと思ったら、今度は水素脆化が抑制されたんです。直感に反する実験結果に戸惑ったものの、ステイコフ先生が密度汎関数や分子動力学計算で解析してくれたおかげで謎が解けました。アンモニア量が少ないときは、鉄鋼材料の表面による触媒作用により、アンモニアから分解された水素(H)が材料に侵入して水素脆化が悪化する。アンモニア量が多いときは、材料の表面にアンモニアを分解するためのスペースが十分ないので分解が進まない。かつアンモニアが材料の表面を覆うため水素分子の分解も進まず、水素脆化を抑制する。こういうメカニズムが見えてきたんです」(図2参照)
一方、理論計算を担ったステイコフさんは、計算と現実のギャップに苦労したという。
「計算資源の限界で、第一原理から、つまり量子力学の基本原理から計算できるのはせいぜい原子200個です。しかし久保田先生の実験に関わる原子は20億個以上もある。計算で扱える原子200個をどのようにモデル化すれば、実験で測定された結果を表せるのか。モデル化に何が重要で、何が重要でないのか。これらの問題を見極めるため、久保田先生と議論を重ねました」
久保田さんによればI2CNERで半年に一度行われているリトリート(合宿)がきっかけで、ステイコフさんとの研究がはじまったという。
「2014年のリトリートでステイコフ先生の研究を知り、声をかけました。私のような機械工学者だけではできないことがステイコフ先生とならできるかもしれないとピンときたんです。I2CNERに来るまで材料工学など、私が専門としている機械工学と近接分野の研究者と共同研究をしたことは何度もありましたが、化学者との接点はありませんでした。融合研究を重んじるI2CNERだからこそ生まれたコラボレーションだと思います」
【取材・文:緑 慎也、写真・図版提供:WPI-I2CNER】
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2021年2月18日
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2019年11月8日